「お宅のアパートのガスメーターに異常が出ています」 11月のある日、市営ガスを運営する会社から突然電話がかかってきた。声は淡々としていたが、続きの言葉は重かった。 「調べたところ、どうやら1室の中でガス漏れが起きているようです。床をめくって調査しないと詳しいことは分かりません」 その日から1ヶ月、あの部屋のガスは止まった。お風呂も料理もできない日々が、赤ちゃんのいる部屋で始まった。

11月、突然の電話

ガス会社の人は、すでに答えを決めている雰囲気だった。 「このままガス漏れを放置するわけにはいきません。今から停止します」 止めるしかないのは分かる。問題は、止めたあとだ。 「工事の依頼もそのまま進められますが、どうしますか」 「お願いします」と答えた。そのときは、数日で直ると思っていた。まさか30日もかかるとは、このときの私は想像していない。

満室の6世帯。漏れているのは、赤ちゃんのいる部屋

そのアパートは6世帯。古い建物だが、ありがたいことに満室だった。 問題の部屋には、1歳から2歳くらいの小さな子を抱えた家族が住んでいた。他の部屋が空いていれば、一時的にそこを使ってもらうこともできた。しかしその日は、どの部屋も埋まっていた。 ガスが止まる。つまり、赤ちゃんのいる部屋でお風呂が使えない。料理も冷たい水しか使えない。11月の寒さのなか、それは日常の崩壊だった。 これは災害だ。私はそう受け取った。

仲介店は「お風呂代を実費精算で」と言った。私は違うと答えた

物件の管理には、仲介店が間に入ってくれていた。早い段階で仲介店の担当者から提案が来た。 「お風呂代を実費で出されるのはどうですか」 銭湯の領収書を入居者から預かり、あとで精算する方法だ。担当者は合理的なつもりで言っている。だが私は、それは違うと伝えた。 「現実的じゃない」と答えた私に、担当者は「なんでですか」と返してきた。 理由はシンプルだ。後払いの精算は、入居者が一度は自分で立て替えることになる。財布から先に出る。金額が膨らんでから戻ってくる仕組みは、若い家族にとって重い。しかも、いつ工事が終わるかはこの時点で分からない。 今すぐ、目の前の負担を軽くする。それが先だ。これは大家の仕事であって、後から清算する話ではない。

家賃2ヶ月免除、カセットコンロとボンベ30本

やると決めたら早い。2つのことを同時に動かした。 ひとつは家賃の2ヶ月免除、合計8万円。銭湯代の何倍にもなるが、「これだけ減らします」と先に言えることが大事だった。後からもらう形を、前から引く形に変えた。 もうひとつは、物理的な生活支援だ。カセットコンロを買い、ガスボンベを30本。どれくらい必要か分からないから、多めに用意した。ボンベ代はざっと1万5千円。 玄関の前に置いた。チャイムを鳴らして家の中まで上がり込むのではなく、必要なときに外で受け取ってもらう形にした。お子さんが寝ている時間に呼び鈴を鳴らさないようにしたかった。トイレットペーパーも一緒に置いた。 これで9万5千円。返ってくるお金ではない。でも、災害への初動としては迷う金額ではなかった。

「赤ちゃんがいるんです」毎日の催促と、30日後の完了

そこからが長かった。 工事の段取りは仲介店とガス会社の工事部門が進めてくれるはずだった。てっきりすぐに日程が決まって、サクサク進んでいるものだと思っていた。しかし、実際は違った。 2週間ほど経ったある日、入居者から直接連絡が来た。「どうすればいいんですか。何かしてもらえないんですか」。 驚いた。工事は止まっていた。正確には、床下の調査に2週間かかっていた。漏れ箇所の特定が終わらないと、修理の段取りに進めないらしい。 そこから私は毎日ガス会社に電話をかけた。伝えたのはひとつだけだ。 「早く工事してほしい。赤ちゃんがいるんです」 担当者には申し訳ないと思いつつも、それ以上に入居者の暮らしが優先だった。電話は律儀に出てくれたが、スケジュールはなかなか前に進まなかった。 ちょうど30日目あたりで、工事は完了した。ガスが通った。長かった。

総額33万5千円。それでも、その人は今も住んでくれている

最終的な出費はこうだ。
  • 家賃免除: 8万円
  • カセットコンロ + ボンベ30本: 1万5千円
  • 工事費: 24万円
  • 合計: 33万5千円
ガス会社からの補償はなかった。建物が古く、経年劣化と判断されたからだ。33万5千円は全額、私の負担になった。 それでも、その部屋の家族は今も住んでくれている。工事が終わってから今日まで、退去の話は一度も出ていない。 大家の仕事は、契約書の外側で試される瞬間が必ず来る。だいたい突然で、保険も補償もない。そこでどう動くかで、数年後の関係が決まる。 33万円は安くない。でも、あの11月に「これは災害だ」と決めて動けたこと。そしてその部屋の家族が、今もそこで暮らしてくれていること。私にとってはそれが、あの判断の答えだと思っている。
ABOUT ME
大家のタロウ
はじめまして、大家のタロウです。 相続でひょんなことから大家になって、もう10年が経ちました。最初は右も左もわからないまま、ずっと手探りでやってきました。 失敗も、焦りも、「え、こんなことが起きるの?」って出来事も、たくさん経験してきたので、せっかくだから記録しておこうと思ってこのブログを始めました。 難しいことは書けませんが、同じように悩んでいる大家さんの「あるある」や「参考」になれたら嬉しいです。よろしくお願いします。