「直接言うからね」と言っていた人が、壁を叩き始めた日

お茶も出ない。携帯を触る雰囲気でもない。
私はただ、黙って座っていた。隣の部屋から音が聞こえてくるのを、一緒に待ってほしい——そう言われたからだ。
1時間、そうしていた。
結局、音は鳴らなかった。あの1時間は、今でも忘れられない。これが、大家と「音」の問題の始まりだった。
築年数のいったテナントビル、壁は薄い
私が相続したテナントビルは古い。テナントは全部で7部屋。隣の電話の声が聞こえるとまではいかないが、ドアの開閉音や物を落とした音はしっかり響く。
冒頭の「1時間」は、このビルの事務所テナントに呼ばれたときの話だ。上の階の足音がうるさいと連絡が来て、「現場で確認してほしい」と言われた。行ってみたら、ただ座って待つだけだった。音は鳴らなかった。でもこのテナントが音に敏感なことは、よくわかった。
そんな建物に、ある日ヨガ教室が入居したいと言ってきた。
不安はあった。でも、受け入れた
ヨガ教室——聞こえはいいが、音楽を流すし、複数人が動く。しかも隣は、あの事務所だ。
正直、不安しかなかった。
それでも受け入れたのは、地域にとって意味のあるテナントだと思ったからだ。ヨガ教室はその地域になかった業種だった。せっかく建物に人が入ってくれるなら、地域の活性化につながるものがいい。
ただし、丸腰で入れたわけじゃない。
ヨガ教室のオーナーには、このビルの音の事情を全部話した。「以前も音のトラブルがあった」「隣の事務所は音に敏感だ」「気をつけてほしい」。口頭だけじゃなく、契約書にも音への対処を明記した。挨拶回りも一緒にした。
事務所テナントの反応は、むしろ好意的だった。
「何かあれば直接言うからね」
——そう言ってくれた。
「来たか」
ヨガ教室が開業してしばらく経った頃、事務所のテナントから電話が来た。
「隣の音が気になる。なんとかしてほしい」
……来たか。
予感はあったのだ。音に敏感な人の隣に、音が出る業種を入れた。気をつけていたけれど、やっぱり来た。
ヨガ教室のオーナーが、想像以上にまともだった
事務所側からの連絡を受けて、私はヨガ教室のオーナーにメールした。
返事はこうだった。
「直接話したいので、間に入らないでほしい」
正直、ありがたかった。音は主観だ。片方が「うるさい」と言い、もう片方が「普通だ」と言えば、間に立つ人間にはどうしようもない。前回の1時間で、それは身に沁みていた。
ヨガ教室のオーナーは、言葉通り自分で動いた。事務所の社員さんと直接話し合い、防音対策を自費で施した。音が出る時間帯のスケジュールを調整し、「この日はどうしても音が出る」と事前に伝えるようにした。
そして、その経過を全部私に報告してくれた。
壁ドンが始まった
ヨガ教室のオーナーは「何かあれば直接言ってくださいね」と伝えていた。
しかし、事務所の社員さんは直接言わなかった。
代わりに、壁を叩いた。
ドン。
音が気になるたびに、壁をドンと叩く。言葉はない。話し合いもない。ただ、壁にぶつける衝撃音だけが、隣のヨガ教室に響いていた。
「直接言うからね」と言っていた人が
ヨガ教室のオーナーから報告が来るたびに、空気が変わっていくのがわかった。
最初は「音が気になると言われたので対策しました」という前向きな内容。それが「また壁を叩かれました」になり、「怖いです」に変わった。
ヨガ教室側は、防音対策もした。スケジュール調整もした。直接話し合いたいと伝えた。やれることは全部やっている。それでも壁ドンは止まらない。
「何かあれば直接言うからね」——そう言ってくれたはずの人が、いつの間にか言葉ではなく壁を叩いていた。
被害者が、加害者になっていた。
大家として、何もできなかった
この間、私は何をしていたか。
正直に言えば、何もしていない。
ヨガ教室のオーナーから「間に入らないでほしい」と言われていた。それに、大家が入居者同士のトラブルに深く介入しすぎると、法律上の問題にもなりかねない。弁護士資格を持たない人間が「交渉」をするのは、非弁行為にあたるリスクがある。以前、駐車場の無断駐車トラブルで間に入りかけたとき、「交渉は自分にはできない」と線を引いた経験がある。
大家にできるのは、状況を把握して、必要な情報を伝えることだけだ。「解決」ではなく「環境づくり」。頭ではわかっていても、壁ドンの報告を聞くたびに、何もできない自分がもどかしかった。
最終的に動いたのはヨガ教室のオーナーだった
事務所には普段、社員が1人で常駐していた。壁ドンをしていたのはその社員さんだ。社長は別の場所にいて、現場の状況を把握していなかった可能性がある。
ヨガ教室のオーナーは、最終的に事務所の本社——社長に直接連絡を入れた。
壁ドンは止まった。「1ヶ月様子を見ましょう」ということで落ち着き、それから1ヶ月以上が経つ。今のところ、再発はしていない。
この件で一番考えさせられたこと
音の問題は、大家にとって最も答えのないトラブルかもしれない。「うるさい」の基準は人それぞれで、間に入っても正解は見つからない。
でも振り返ると、事前にやっておいたことが、今回の被害を最小限に食い止めたのだと思う。契約書に音の条項を入れておいたこと。ヨガ教室のオーナーにビルの事情を全部話しておいたこと。挨拶回りを一緒にしたこと。この3つがなければ、ヨガ教室側があそこまで迅速に動いてくれたかどうかはわからない。
そしてもうひとつ。ヨガ教室のオーナーが逐一報告してくれたから、私は状況を把握できた。これは普段から関係性を築いていたからこそだ。テナントとの付き合いを完全に事務的にしてしまうと、いざというとき情報が来ない。たまに顔を見せる、困りごとがないか声をかける——地味だけど、トラブル時の情報の入り口になる。
一番考えさせられたのは、**「被害者がいつの間にか加害者になる」**ということだ。これは音の問題に限らない。不満を溜め込んだ人が、ある日突然、別の形で爆発する。それを防ぐのは、たぶん「直接言える関係」を維持し続けることなのだと思う。
あの事務所のテナントも、最初は「直接言うからね」と言ってくれていたのだ。
モンスターカード No.004「壁ドンの亡霊」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 分類 | 入居者モンスター |
| 被害 | テナント間の音トラブル → 壁ドンによる威嚇行為 |
| 原因 | 古い建物の薄い壁/音に敏感なテナントと音が出る業種の隣接 |
| 解決 | ヨガ教室側が本社に直接連絡し、壁ドンが停止 |
| 教訓 | 契約書に音の条項を明記/大家は介入しすぎない/普段の関係性がトラブル時の命綱になる |
※ この記事は筆者の実体験をもとにしたものです。特定を避けるため、一部の情報を変更しています。状況によって対応は異なります。トラブルが発生した場合は、専門家(弁護士・不動産コンサルタントなど)にご相談ください。


